千年の波で読む、いまの八ヶ岳西麓——豊平の田んぼと、蓼科湖の記憶
- 5月17日
- 読了時間: 10分
更新日:5月21日
御射山、坂本養川、蓼科湖、そして波動分析。鑑定士の現場感
豊平の田んぼで、いま起きていること
具体の話から始めたい。
茅野市豊平の田んぼが、この1〜2年で10件ほど取引になっている。
これは、八ヶ岳西麓の不動産事業者として、20年以上現場を見てきた私から言わせると、異常な数字だ。
田んぼは、これまでもっとも売れにくい不動産だった。農地法の制約、農業委員会の許可、水利の複雑さ、機械の問題、面積の中途半端さ、買い手の不在——理由はいくらでもある。「田んぼだけは引き受けるな」と、不動産業界の中で半ばタブーのように言われていた時期もあった。
それが、豊平で10件動いている。
買い手の動機は、ほぼ全員が自給だ。資産運用ではない。「米を自分で作りたい」「畑と田を両方やりたい」「自然のなかで生活を充実させたい」——20代から40代の方々が、最初の希望条件としてこういう言葉を出してくる。
「区に入るのは構わない」とも、最初から仰る。
5年前なら考えられなかった現象だ。何かが、明らかに変わった。
このシリーズの3回目として、今回はこの変化が千年以上の時間軸の上で何を意味するか——そして私自身の家族の記憶と、どうつながっているか——を書いてみたい。
鎌倉時代——原山様で、ドジョウをすくった子ども時代
時間軸を一気に遡る。
鎌倉時代、八ヶ岳の北側の霧ヶ峰高原と、原村の八ヶ岳山麓で、毎年夏に全国の武士が集まる大祭が開かれていた。御射山祭(みさやまさい)だ。
鎌倉幕府の保護を受け、流鏑馬・相撲・狩猟が奉納され、10万人とも記録される人が集まった。霧ヶ峰の旧御射山遺跡には、いまも階段状の桟敷席の跡が残っている。「日本のオリンピア」「日本最古の競技場」と呼ばれる場所だ。
私は、その霧ヶ峰の旧御射山にはインタープリター研修で行った。八島湿原の散策ルートで、湿原の植物を観察し、シュレーゲルアオガエルの声を聞きながら歩く。途中で旧御射山の階段状の地形に出る。
そこに立つと、不思議な感覚に襲われる。昔の国会議事堂のような雰囲気を感じる。あるいは、ギリシャの古い円形劇場のような。人がここで集まり、何かを決め、何かを祝った場所——という気配が、地形そのものから漂ってくる。
鎌倉時代の武士たちが、ここに馬で集まり、桟敷に座って流鏑馬を見ていた。その場所の地形が、今でもそのまま残っている。これは、現地に立たないと分からない感覚だ。
そして、上社の御射山——原村側の「原山様」——は、私の子ども時代の記憶の中にある。
子どもの頃、原山様のお祭りに連れて行ってもらった。覚えているのは、ドジョウすくいだ。水場でドジョウをすくって、ザルに入れて、家に持ち帰る。お祭りらしい飲食や賑わいよりも、ドジョウすくいの記憶が強く残っている。
これも、鎌倉時代から続いている祭の現代の形だ。900年前は武士たちが流鏑馬を奉納していた場所が、いまは子どもたちがドジョウをすくう場所になっている。祭は変容しながら続く。私が子どもの頃にすくっていたドジョウは、武士たちの馬の蹄が見ていた水と、同じ水だ。
江戸時代——坂本養川の堰と、楽ち倶楽部のBBQ
時間軸をもう一つ進める。
江戸時代後期、茅野市宮川の名主坂本養川が、八ヶ岳の水を等高線に沿って横に運ぶ堰を15本掘った。これが今も茅野・原村・富士見の田畑を潤している。
冒頭の「豊平の田んぼ」も、坂本養川の堰から水を引いている。動いている田んぼの水は、250年前の偉人が引いた水だ。
私は、坂本養川の像がある場所で、毎年あることをしている。移住者向けのBBQだ。
場所は、茅野市の尖石遺跡の裏。縄文中期の集落跡(国宝の縄文のビーナス・仮面の女神が出土した場所)のそばに、尖石少年自然の森がある。そこに坂本養川の像が立っている。地区の有志で楽ち倶楽部(楽しく茅野の倶楽部)というのを作っていて、毎年そこで移住者を迎えるBBQを開いている。
その立地が、考えてみると不思議だ。
縄文5,000年前の集落跡(尖石遺跡)、江戸後期の水利偉人の像(坂本養川)、令和の移住者BBQ(楽ち倶楽部)——三つの時代が、同じ200メートル四方の中に重なっている。
私たちは、何も特別な意図でその場所を選んだわけではない。けれど、結果として縄文人が水を選んだ場所、江戸時代の水利偉人を顕彰する場所、令和の移住者を地縁に接続する場所が、同じ場所になった。
これは偶然ではないと、最近思うようになった。水と地縁は、千年単位で同じ場所に重なる。豊平で動いている田んぼも、その水脈の延長線上にある。
楽ち倶楽部のBBQで初めて顔を合わせた移住者の方が、何年か経って区の役を引き受けてくれることがある。「最初は怖かったけど、入ってみたら気が楽になった」とよく仰る。それが千年続く地縁の入口だ。
昭和——蓼科湖のほとりで、私は育った
もう一つ、私自身の話を書いておきたい。
シリーズ前回(記事②)で書いたとおり、私のおばあちゃんの実家は茅野市泉野中道にある。だが、私自身がどこで育ったかというと——蓼科湖の畔だ。
両親が、若い頃に蓼科湖の上で蓼科グリーンビューホテルを経営していた。蓼科湖から少し登ったところ、標高1,300m前後の高原だ。私は、そのホテルの近くにあった寮のような別荘に住んでいた。
子どもの頃の記憶は、いま思い出してもよく出てくる。
蓼科湖の周りで遊んだ
温泉に頻繁に入った(蓼科温泉郷の中だから)
ニワトリがいた
ニワトリの記憶は、特に鮮明だ。両親か近所の方が飼っていた数羽のニワトリが、毎朝鳴いて、卵を産んでいた。子どもの私にとって、それは特別なことではなく、当たり前の風景だった。
そして今、移住検討者の20代から40代の方が、「鶏も飼いたい」と希望条件に出してくる。それを聞くたびに、自分が子どもの頃に当たり前だったものを、いまの若い人たちが取り戻しに来ている、という感覚になる。
蓼科湖は、いまは道の駅(蓼科ビーナチェ)があって、観光客が立ち寄る場所になっている。私もよく行く。だが、子どもの頃の蓼科湖は、もっと生活の場だった。両親が働き、私が遊び、ニワトリが鳴いていた場所。
シリーズ第1回(犬が元気になる森)で書いた、八ヶ岳西麓の土地の力——犬が元気になる森、おばあちゃんの古民家のひんやりした風、深山の湧水——その全部を、私は子どもの頃から身体で知っていた。
その土台があるから、いま不動産事業者として「身体で土地を選べる方」を大事にできる。私自身が、身体で土地を選んできた人間だから。
蓼科湖の歴史——千年の水が一つの湖に凝縮
蓼科湖の話を、もう少し書きたい。
蓼科湖は、昭和27年(1952年)に農業用ため池として作られた人造湖だ。坂本養川の堰で約400haの水田が潤うようになったが、水源の標高が高くて水が冷たかったため、農業用水を太陽光で温めるためにこの湖が築造された。観光地化したのは、1960年に湯川財産区から土地が民間に買収され、63年にビーナスラインが開通してからだ。
つまり蓼科湖の歴史を時間順に並べると、こうなる:
1,500万年前 フォッサマグナ(湖の地形的母体)
5,000年前 縄文の水利知(湧水のそばに集落)
千年単位 民話「蓼科山の涙が諏訪湖になった」
江戸後期 坂本養川の堰
昭和27年 人造湖完成(灌漑のため)
昭和38年 ビーナスライン開通・観光地化
昭和後期 朝倉家族が蓼科グリーンビューホテルを運営
令和 私が道の駅で立ち寄る
1,500万年から令和まで、すべてが一つの湖に凝縮されている。
そして、その湖の畔で、私は育った。家族の話と土地の話が、ここでつながっている。
私が不動産事業者として八ヶ岳西麓の物件を見るときに、なぜ「土台から見ろ、上物は後」と言うのか。なぜ「土地に立つ感覚を確かめてほしい」と言うのか。理由のひとつは、自分自身が土地の上で育ったからだ。土地が暮らしを支えるという感覚を、頭ではなく身体で持っている。
サイクルを信じて、土地を買い取る
最後に、波動分析の話を書いておきたい。
「波動分析」と聞くと、占いか何かのように思われるかもしれない。だが、私にとってはもっと現実的なものだ。
経済には、短期から長期までいくつものリズムがある。
キチン4年波:在庫調整のリズム
ジュグラー10年波:設備投資のリズム
クズネッツ15-25年波:人口・建築・世代交代のリズム
コンドラチェフ50年波:技術と社会のリズム
ダリオ100年波:基軸通貨と覇権のリズム
気候200-1,000年波:寒暖の長いリズム
これらの波は、別々に動いているように見えて、ときどき同じ方向に揃う。
いまが、まさにその局面だ。
気候200-1,000年波が温暖化に振れて、標高900-1,500m帯が農業適地として再浮上(縄文中期と同じ条件)
ダリオ100年波が陰転(基軸通貨動揺、食料安保、サプライチェーン寸断)
コンドラチェフ50年波の底入れ(別荘文化が一周期使い切り、次のテーマが分散・自給)
クズネッツ15-25年波が団塊相続ピーク入口(2025-2035の10年)
ジュグラー10年波でコロナ後の保守シフト(集約・依存の脆さが露呈)
キチン4年波で在庫から需要表面化へ(田んぼ・古民家が動く)
6つの波動が、すべて「動く側」に揃っている。
これは滅多に起きない位置だ。短い波は短い波で、長い波は長い波で、それぞれ別のリズムを刻むはずなのに、いま全部が同じ方向を向いている。
そして、この波が来ていることを信じて、自社買取の判断ができる。
田んぼ、古民家、農地付き空き家、集落の中の中古住宅——5年前なら買い取るのを躊躇した物件を、いま私たちは買い取っている。「サイクルが来る」と信じているから、買い取れる。
冒頭の豊平の田んぼ10件も、その判断の延長線上にある。「動くはずだ」と思って動いた田んぼが、実際に動いた。これは波動分析が決め手になった現場の判断だ。
豊平の10件は、千年の延長線上にある
ここまでの話を、最後にまとめたい。
豊平で田んぼが動いている、という現場の事実は、こういう千年の積み重ねの上にある:
5,000年前、縄文人が八ヶ岳西麓を日本最大の集落地帯にした
1,200年前、御柱が始まり、御射山祭で全国の武士が集まった
900年前、原山様でいまも続く祭祀の原型ができた
250年前、坂本養川が15の堰を掘って八ヶ岳の水を運んだ
70年前、蓼科湖が農業用ため池として作られた
40年前、私はその湖の畔でニワトリと一緒に育った
今、20-40代が「区に入る、鶏を飼う、田んぼをやる」と希望条件に出してくる
これは流行ではない。五千年単位の時計が、また同じ針の位置に戻ってきている。
豊平の田んぼに買い手がつくのは、土地が機能しているからだ。坂本養川の水が流れているからだ。区が機能していて、地縁が生きているからだ。そして、それを選ぶ目を持った若い世代が、いま増えているからだ。
私は鑑定士なので、土地を数字で評価することもできる。だが、いちばん大事な評価は、千年の時間軸の上で土地が機能しているかどうかだ、と思っている。
豊平の田んぼは機能している。だから動く。
御柱街道の集落は機能している。だから人が住みたがる。
深山の森は機能している。だから犬が元気になる。
3部作で書いてきたことは、すべてこの一点に帰着する。機能している土地を選ぶ。そして、機能を壊さないように暮らす。それが八ヶ岳ライフ株式会社の提案する、千年単位で破綻しにくい生活設計だ。
おわりに——3部作を終えて
3回にわたって、八ヶ岳西麓の土地の話を書いてきた。
第1回(犬が元気になる森)では、地下水と石と苔と、犬がもらうパワーの話。
第2回(御柱街道沿いの土地が動いている)では、御柱で原と泉野が結ばれている地縁の話。
第3回(今回)では、豊平の田んぼと、自分の家族史と、千年の波動の話。
書きながら気づいたが、これは八ヶ岳ライフ株式会社の事業の核心を、私自身の言葉で言語化した3本でもある。フォッサマグナの上で湧水が出ること、御柱で集落が結ばれていること、千年の波動が今いっせいに動いていること——どれも、八ヶ岳西麓に立たないと感じられないことだ。
物件を見にいらっしゃる方には、ぜひ一度、現地に立っていただきたい。深山の森でも、御柱街道沿いの集落でも、豊平の田んぼでも、蓼科湖の畔でもいい。
そこで何かを感じていただけたら、千年の話が、自分の暮らしの話に変わる。
そういう時間をご一緒できる方と、これからも仕事をしていきたいと思っている。



