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ガラガラの百貨店、建ちすぎるオフィス、行列と「限定」の店。東京で見た一本の線

  • 7月9日
  • 読了時間: 9分

先日、仕事で東京に出ました。渋谷、三越前、東京駅。ひさしぶりに歩いて、風景がまた変わっていて驚きました。

その日、私はいくつものまったく違うものを見ました。閉店を知らせる百貨店。空を刺すように建ち上がり、見上げると圧迫感すらある高層オフィス。炎天下でも行列のできる小さな店。そして、あちこちにあふれる「ここだけ」「限定」の看板。

はじめはバラバラの光景に見えました。でも歩きながら考えているうちに、これらが一本の線でつながっていることに気づいたんです。そしてその線は、場所の話にとどまらず、これからの「働き方」や「人の価値」にまで伸びていて、私が八ヶ岳の西麓でやっている仕事の話と、まっすぐ地続きでした。

① 58年やってきた百貨店が、9月30日に閉じる

渋谷の駅ビルに、大きな案内が出ていました。

「THE LAST 9.30 WED ― 58年の感謝をかたちに。」

長くこの街の顔だった百貨店が、この秋で幕を下ろす。フロア案内図を見ると、婦人服、紳士服、宝飾品……かつて「良いものを一箇所に集めた場所」の目録が、そのまま閉店の掲示になっていました。

百貨店だけの話ではありません。地方の百貨店は、この十年で次々と姿を消しています。東京の一等地でも、器が静かに空きはじめている。

百貨店の本質は、「良い物を一箇所に大量に集め、人を集めて売る」ことでした。集めれば集めるほど強い。長いあいだ、それが勝ちパターンだった。

ところが、いまはどうでしょう。物を買うだけなら、スマホひとつで済みます。わざわざ大きな器まで足を運ぶ理由は、もうない。「物を集めるだけの場所」から、人が静かに引いていく。閉店の案内は、その一つの答えです。

② 同じことを、こんどは「床」でやっている

渋谷駅も東京駅も、あちこちで再開発の真っ最中でした。青いネットに覆われたガラスの高層ビルが、何本も建ち上がっています。見上げると、街のかたちそのものが違う。

見ながら、ふと思いました。あの高層オフィスは、百貨店とまったく同じ発想でできている。

百貨店が「物を一箇所に集めた」なら、オフィスビルは「人を一箇所に、それも垂直に集める」器です。同じ場所に大勢を集めて、顔を合わせて仕事をする。集約・効率——狙いは百貨店とそっくりです。

でも、ここでも同じことが起きつつあります。AIやオンラインのおかげで、いまや稼ぐことそのものが場所から離れはじめている。どこにいても仕事はできる。そうなると、「人を集めるためだけの床」も、百貨店の売場と同じ理由で、いずれ余っていく。

見上げていると、正直、少し圧迫感もありました。道は影になり、空も景色も見えない。天まで届く塔をひとつの場所に積み上げる——そういえば、そんな昔の話があったな、と。

ただ、家に帰って気になって調べてみると、意外なことがわかりました。いま都心のオフィスは、じつはガラガラどころか、空きがとても少ない。出社に戻る動きもあって、良いビルほど埋まっているそうです。私の「すぐ余る」という直感は、少なくとも今日の数字では外れていました。

でも、もう少し中を見ると、やはり分かれていました。都心のど真ん中は埋まる一方で、立地の弱い場所の新しいビルには空きが目立つ。同じ「新築の高層」でも、場所という固有の条件で、埋まるものと埋まらないものにくっきり割れている。そして塔の伸びを止めているのは崩壊ではなく、建築費の高騰と人手不足という、地味だけれど動かしがたい壁でした。人を集めすぎた東京から、福岡や京都へ拠点を移す会社も出はじめている。

では、あれだけの塔を建てている大手の会社は、床を貸してずっと儲け続けられると思っているのでしょうか。決算を見ると、答えは少し意外でした。大手は確かに過去最高益を更新しています。ただ、その稼ぎ方が変わってきている。「建てて、持ち続けて、家賃で稼ぐ」より、「建てて、良い値で売り抜ける」ほうへ軸足を移しているのです。なかには、はじめから早く売る前提で建てるビルのブランドまであります。つまり作っている当人たちも、床を長く抱え込むのではなく、価値が高いうちに手放して次へ回す、という動き方に変わりつつある。塔がどんどん建つ風景の裏で、当の作り手が「持ち続ける」ことに慎重になっている——ここは、見上げているだけでは見えないところでした。

それに、あの新しい塔をよく見ると、低層階はたいてい物販とレストランです。上はオフィス、下は店とレストラン。……これ、どこかで見た形です。そう、百貨店です。良い物と飲食を一箇所に集めて人を呼ぶ、あの器を、こんどはオフィスビルの足元でもう一度こしらえている。人が引いていった集約の器を、少し形を変えて、また下半分に作り直しているように見えるのです。もちろん各社も工夫はしていて、買い物だけでなく体験や滞在、観光客の取り込みで昔の百貨店とは違うものにしようとしている。それでも、「良い物を集めて人を呼ぶ」という発想の芯は、閉じていく百貨店とそっくりです。同じ轍を踏まないといいな、と、下の華やかな売り場を見上げながら思いました。

崩れるのではなく、伸びきって、静かに折り返す。同じ「集約が終わる」波が、小売から、いま床の世界へゆっくり回ってきている——見上げたガラスの塔は、私にはそう見えました。

③ ところが、すぐ近くの店には行列ができていた

その足で少し歩くと、あるスニーカーショップの前に、人が長い列をつくっていました。日傘をさして順番を待っているのは、その多くが海外からの旅行者です。

同じ渋谷の、ほとんど地続きの場所。片方はガラガラで店を閉じ、片方は炎天下でも人が並ぶ。この差は、いったい何なのか。

答えは、たぶんこうです。その店には「そこでしか手に入らない」「そこでしか味わえない」理由がある。物そのものではなく、その店に来た体験に価値がある。だから、わざわざ来る。海を越えてでも来る。

物を集めただけの器(百貨店)からは人が引き、その場所ならではの理由がある店(この行列)には、遠くからでも人が集まる。同じ街のなかに、その両方がくっきり並んでいました。

その目で歩くと、街にあふれる「限定」の看板も、二種類に分かれて見えてきます。鎌倉の鳩サブレーは、東京駅では見つからず、大丸までいってやっと買えました。本当に強いものは、売る場所を絞っても、人のほうが探して買いに来る。行列の店と同じ側です。逆に「東京駅限定のキャラクター」「渋谷限定の韓国コスメ」の類は、中身に固有性がないから「限定」の衣装を後から着せているだけ。同じ「ここだけ」でも、固有性が先にあるものは強く、固有性がないのに場所で釣るものは、いずれ厳しい。名乗るのはタダですが、中身と一致しているかは、ごまかせません。

④ 五つを一本の線でつなぐと

物を集めた百貨店も、人を集めたオフィスも、集約という同じ発想の器でした。その役目が静かに終わっていく一方で、遠くからでも人が来る店、探してでも買いに来る品には、共通して「そこにしかない理由」がある。後付けの「限定」は化けの皮が剥がれ、本物の固有性だけが残っていく。

貫いているのは、たった一つのことです。「たくさん集めれば勝てた時代」が終わり、「そこにしかない固有のもの」が選ばれる時代に変わりつつある。東京の一日は、その分かれ目を、これ以上ないくらいはっきり見せてくれました。

⑤ そして、同じことが「人」にも起きはじめている

ここまでは、場所の話でした。百貨店という器、オフィスという器。でも、もう一歩踏み込むと、同じ波は「人」にも届いているように思います。

AIの時代です。大量の作業は、これからコンピュータがやります。決まった手順の事務も、資料づくりも、下調べも、機械のほうが速くて正確です。そうなると、どうなるでしょう。同じ作業をする人、誰と替えても同じ人は、だんだん要らなくなっていく。これは、良い物を並べるだけの百貨店から人が引いていったのと、まったく同じことです。「たくさんこなせる」だけでは、もう強みにならない。

では、何が残るのか。ここで、あの行列の店を思い出してください。人が並んだのは「そこでしか味わえない」からでした。オフィスに集まって働く人にも、これから同じことが問われます。その人だから頼みたい、という個別性。この人にしか出せない、という限定性。それがある人のところにだけ、仕事も人も集まっていく。店と、まったく同じ構造です。

そうだとすると、正直な問いが立ちます。自分は、誰かと替えのきく「同じ作業をする人」でしょうか。それとも、その人にしかない何かを持った人でしょうか。これは、東京のオフィスで働く人だけの話ではありません。私自身の問いでもあります。

⑥ 八ヶ岳の西麓から、東京を見て思うこと

私はふだん、茅野・原村・富士見の三つの町村で、山林や畑、空き家や別荘を扱っています。都心とは正反対の場所です。

けれど東京を歩いて、むしろ確信が深まりました。私たちの土地は、あの「行列の店」や「鳩サブレー」と同じ側に立っている、と。

八ヶ岳の西麓で私が扱っているのは、集約された床ではありません。日射も、風も、標高差も、森と水の関係も、その土地にしかないもので、人の手では再現できません。まさに「そこにしかない固有のもの」です。後から着せた「限定」の衣装ではなく、その土地の本体そのものが固有なんです。

だから、飢餓感をあおる必要がありません。「今だけ」「早い者勝ち」と追いかけ回さなくていい。固有性が本物なら、置いておくだけで、探している人のほうから来てくれる。あの大丸の鳩サブレーのように。むしろ「今だけ」と煽らなければ売れないものほど、中身の固有性が足りていない——街を歩いて、そう思いました。

そして、こうも思います。稼ぎが場所から離れていくほど――つまり、あのオフィスの床が要らなくなっていくほど――人は「どこで暮らすか」を、自由に選べるようになる。オフィスの床を余らせていくのと同じ力が、逆に、こういう土地を選ばせていく。自由に選べるとき、多くの人が本当に求めるのは、もう一棟のガラスの塔ではなく、日の当たる土地やきれいな水や背後の森のほうだと、私は思っています。

もう一つ、さっきの問い――自分は替えのきく人か、その人にしかない何かを持った人か――にも、この土地はつながっている気がします。畑を耕し、薪を割り、その土地の水や季節と向き合う暮らしは、誰かと同じにはなりようがありません。同じ作業をこなす速さでは、AIにかないません。でも、その土地でその人が積み重ねた時間だけは、誰にも複製できない個別性になる。八ヶ岳の暮らしを選ぶというのは、便利さを買うことではなく、自分の固有性を、時間をかけて土地とともに育てていくことなのかもしれません。少なくとも私は、そういう場所として、この土地を見ています。

閉店を知らせる大きな案内。建ち上がるガラスの塔。炎天下の行列。そして、あふれる「限定」の看板。同じ日に東京で見たいくつもの風景は、私にとって「なぜ、いま、この八ヶ岳西麓なのか」を、静かに裏づけてくれるものでした。

そんなことを考えながら、山に帰ってきました。

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