名前のない沢が、諏訪湖に流れ込むまで——原村上里の山林から標高差250m
跨げるほどの、細い流れ
原村上里、二本の川にはさまれた山林です。字(あざ)を弓振川北といいます。
幅は一メートルもありません。跨げてしまう程度の流れです。八月の終わり、両岸には夏草が茂り、黄色い野花が咲いていました。
この沢には、名前がありません。
地図を開いても出てきません。それでも水は毎日流れていて、この水がどこへ行くのかを辿ると、答えははっきりしています。
無名の沢 → 弓振川 → 宮川 → 諏訪湖
この沢は弓振川に合流します。弓振川は宮川の支流で、宮川は八ヶ岳連峰の南西部から流れ出す矢ノ口川・阿久川・大早川・前沢川などを集めながら諏訪盆地を下り、諏訪湖の南岸に流れ込みます。
同じ日の昼、私はその諏訪湖の湖岸に立っていました。
水面の標高は、およそ759m。
午後に見たあの沢は、標高1,000mを少し超えたあたりにあります。車で30分、標高差にしておよそ250〜300m。その落差を、水は休まず流れ下っています。
湖と山を別々の場所として見ていると気づきませんが、これはひと続きの地形です。八ヶ岳に降った雨と雪が森の腐葉土に染み込み、湧き、名もない沢になり、川に合流し、最後に諏訪湖に溜まる。あの沢は、その途中の一点でした。
名前がないのは、河川法の指定を受けていないから
不動産の実務の話をします。
「名前がない」というのは、重要でないという意味ではありません。河川法の指定(一級・二級・準用)を受けていない、というだけのことです。
こうした小さな流れは普通河川として扱われ、公図の上では青線として描かれています。青線は法定外公共物のひとつで、かつては国有財産でしたが、機能を有するものは平成17年までに市町村へ譲与されました。地番がなく、面積も登記されていません。公図に幅だけが描かれた、地図上の細い青い線です。
この青線が、土地の実務に効いてきます。敷地を横切っていれば一体で使うのに用途廃止と払下げの検討が要りますし、造成で付け替えるなら村との協議になります。境界確定のときは隣接地扱いで、官民境界の立会いが必要です。
物件情報に「青線あり」とは書かれません。現地に立って、公図を重ねて、初めて見えるものです。
青線があるということは、昔から水が流れていたということ
もうひとつ、青線には別の読み方があります。
公図に青い線が引かれているのは、その場所を昔の人が水路として認識していたからです。測量技術がなかった時代から、水が集まる筋はここだと分かっていた。地形が水を集める場所は、百年経っても変わりません。
だから青線は、手続きの手間であると同時に、地形を読むための手がかりでもあります。
冒頭の写真をもう一度、土地を見る目で読み直すと——
沢がある:周囲より地下水位が高い可能性がある。井戸の見込み、建物の基礎、排水計画がここから読める
林床の草丈が高い:日射が入っている。全面が暗い針葉樹林とは条件が違う
落葉樹とカラマツの混交:冬は葉が落ちて明るくなる。夏と冬で日射条件が逆になる土地
傾斜と沢の位置関係:大雨のとき水がどこを通るか。宅地にできる面がどこかは、これで決まる
ただ、この沢について私が一番に思ったのは、別のことでした。
コンクリートで固められていない沢は、もう珍しい
小さな流れは、たいてい直されます。農業用水として使うために、災害の復旧で、宅地を造成するために。三面張りの水路になり、まっすぐな溝になる。人家に近いほどその率は上がります。
この沢は、そうなっていません。土の岸のまま、草が両側から迫り、石の上を水が越えていく。手が入らずに残った流れです。
これは私の見立てですが、その希少性は年々効いてくると思っています。理由は三つあります。
水が土に還る
三面張りの水路は、水を速く下流へ送るための構造です。土の川床はその逆で、水が地面に染み込みます。地下水を養う働きがあり、井戸を考えるならこの違いは無視できません。大雨のときも、コンクリート水路より水の出方が穏やかです。
生き物と音が残る
沢に草が茂り、石と淵があるということは、そこに棲むものがいるということです。夏の夕方に水の音がする土地と、しない土地は、住んでからの印象がまったく違います。
作り直せない
造成すれば宅地は作れます。道も引けます。しかし、土の岸に草が生えて水が石を越えていく状態は、後から作れません。一度コンクリートにした流れを元に戻した例を、私は諏訪地域で見たことがありません。
ただし、鑑定士としては両面を書いておきます
護岸がないということは、流路が振れるということでもあります。
大雨のとき水は同じ場所を通るとは限りません。岸が洗われて崩れることもあります。だから建物は沢から十分に離して配置する必要がありますし、将来もし護岸が要る事態になったとき、青線だから村がすぐ直してくれるとは限りません。
そして、鑑定の実務で言えば——この希少性は、価格に直接は反映しにくい。
取引事例比較法は、似た取引を集めて比べる手法です。ところが「沢がコンクリートで固められていない山林」の取引事例は、そもそも集まりません。個別格差の補正として何%と置くこともできない。数字にならないのです。
それでも、実際に現地に立った方の反応は、この沢の前で明らかに変わります。数字にならないものが、選ぶ理由になる。山林や農地を扱っていると、そういう場面に何度も出会います。
だから私は、こういうことを書いています。査定書には書けないからです。
「諏訪」で括ると見えないもの
物件情報に載っているのは、所在地・面積・価格・地目です。標高も、青線の位置も、冬の日射も書いてありません。
けれど住んだあとに効いてくるのは、そちらです。
水はどこから引くのか。排水はどこへ流すのか
冬の朝、玄関前を何分掘るのか
畑に何をいつ蒔けるのか
夏の午後、家の中が涼しいのか暑いのか
これらは現地に立って、その季節に見ないと分かりません。数値と写真だけでは埋まらない部分です。
私が茅野市・原村・富士見町の三町村に絞っているのは、この上流から下流までを一日で歩いて確かめられる範囲だからです。
その日の一日
昼は湖畔で魚料理を食べ、午後は原村上里の森で沢を見ていました。
湖畔で外食して、30分登れば森の中にいる。どちらかを選ぶというより、どちらも日常の射程に入る。それが諏訪地域の地形の面白さだと思っています。
現地に来られた方とは、よくこの二つを同じ日に回ります。標高差は言葉で説明するより、一日で体感してもらうのが早い。あの沢の水が、昼に見た湖に流れ込んでいる——そう分かると、地図の見え方が変わります。
この記事の次に読むなら
上流の土地で水をどう確保するか。井戸と浄化槽の費用の出方を、上水道・公共下水道と並べて整理しました。
この記事と同じ山林を、冬の終わりに歩いたときの記録です。夏草に覆われる前の地面が見えます。
水辺のある土地で、畑と薪をどう組み合わせるか。別の一枚の土地で考えた例です。









